昭和49年05月23日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
金光大神御取次の働きと云う物を、受けられると云う事。何所ででも何時でも、「生神金光大神」を唱えるところに、生神金光大神御取次の働きが始まる訳であります。せっかく金光大神にいわば来て頂くのですから、本当あの、本当ににおかげの頂けれる。おかげを頂く為に来てもらわないけません。せっかく限りないおかげの頂けれる信心に、こうして神縁を頂いているのですから、本当に限りなくおかげの頂けれる事の為に、金光大神の御働きを頂きたい。
それではなぜ金光大神の御取次の働きを頂かなければならないかと言うと、私共の思うておる事と金光大神の思うて御座る事は、もう天地程の違いがあるんです。例えば、まあ解りやすく言うなら、私共が肉眼でしか見えない事を、金光大神は神眼を以て教えて下さる。働いて下さるのです。ですから、そう言う意味合いで金光大神御取次の働きと云う物を頂かなければならん。
昨夜の御祈念の後、幹三郎が御用さしてもらっておりました。後の御理解にこんな短いお話でしたけど、その中にこう云う事を言っておりました。「本当のものが本当に見えず、本当でないものが本当に見えたりする」と云う事。「本当な事が本当に見えず、本当でないものが本当に見えたりする。「それは自分の心が何ものかに捉われておる時である」と言っております。私はそれを其処ん所だけ聞かせて頂いて、はあ素晴らしい事だと思うてここに書き留めたんです。
私共が本当なものが本当に見える時にです。そこには感謝の世界、お礼を申し上げる世界しかないです。所が、本当であると云う事が例えば、御理解を頂いて解っておってもです。その本当なことが本当に見えてない証拠に、言うならば、淋しかったり、腹が立ったり、悲しかったりイライラしたり、いわゆる我情我欲が出たりする訳です。本当の物が本当に見えない。言うなら、赤が赤に見えない。赤が白に見えたりする。
本当でない物が本当に見えたりする。間違った事が、違った事が本当の事の様に思う。そう言う時にはです。必ず自分の心の中に何ものかに捉われておる時だとこう云う。自分の心が何者かに捉われておるのだ。そこでやはり修行がいるんです。本当な事が本当の事として判る事の為に修行がいるんです。昨日午後の奉仕、もう四時の御祈念が終わってここへ座った時だったです。久留米の古賀さん所の一人息子ですが、洋一君が参って来た。勤めの帰りに毎日参って来る。
とてもとても毎日ここにお参りして来るてんなんてん言う様な事は、よっぽど自分の心の中に苦しい事があるからです。人が参れと言うて参るだけの信心を頂いておるとは思われない。しかも、一日ツー、一杯の勤めをさせてもろうてからお参りをして来るのですから、もうやっぱり何かそこに縋らなければおられん苦しい事があるのです。昨日も丁度私ここにおりましたから、その苦しい事を自分で色々お届けをするんです。「今の勤めをこの際辞めてしまおうかと思います」とこう言う。
私は洋一君がここへ来た時に御神米を下げて、御神米にこう云う事を頂いておって、ここにちょっと控えておった事を御神米に書いてやった。「伸びんと欲する者は、まず屈せよ」「洋一くん今あなたにここに御神米が下がっとるとには是はあなたが頂かなければならない事だと、今あなたが来る寸前に頂いてここに書いたばっかりのもんだ」勿論御神米にもそれを書いた。だからこの意味事を話した。 実を言うたらです。まあ言うなら何と言うんでしょうかね。まあ上役の人が非常に意地悪くやる訳です。
けども本当の事が分ったら、例えば自分が本当に大きくなりたい、伸びたい成功したい、おかげを頂きたいと言う本当の願いを持っておるならば、それは伸びることのための言わば躾を受けておるのであるから、月謝払ってからでもお礼ば言わにゃんごたる。それを言わば肉眼だけで見るから、もうこんな嫌な人間関係のとこではもう僕は嫌だとこう言う心が起こってくる。それを金光大神の目を以てするとです。
それはむしろその人にお礼ば言わんならん。もう月謝ぐらい払うてからでも教えてもらわんならん所を通っとる。此処ん所が金光大神に来てもらわないとそれが解らん、私共では。だからそれはおかげなんです。けれどもおかげと解らない。判るまではです。やはりそう言う、「伸びんと欲する者は、まず屈せよ」と。其処ん所を耐えて行け。辛抱して行けと。そして後で考えて、「あぁあの人こそ神様だった」と云う事になるのです。だからそう言う時にです。
私は、金光大神来てくれと云う所へ行ってやると仰るその金光大神に来て頂いて、日頃金光大神の御教えを頂いておるその教えを、また改めて頂き直して、はあここが屈せなければならない所だ。ここが辛抱しとかなければならないとこだなあと解らなければ〔いけない〕。そしてそれが日にちが経って判らして頂く事は、成程これがおかげであった。あの面見ろうごつもないと言う様な上役の顔が神様に見えて来る様になり、また神様であったと判って来る様になるまでは、やはりその辛抱がいると云う事です。
だから信心辛抱と云う事はそう言う時に使うのじゃないだろうかとこう思う。本当な事と解ればです。もうその場でお礼を言わなきゃならない事だけれども、私共はその本当な事が判らない。なぜ解らないかと心の中にです。幹三郎の話じゃないけれども、何ものかに捉われておるからであると言うのです自分の心が。段々自分の心の改まる事に研く事に精進さして頂いて、捉われておる物から開放された時に初めてそれが判って来る。本当な事が本当な事として判って来る。そこにはです。
お礼を申し上げなければならない、それ以外の何物もないと云う事になるのです。私共特に、人間関係の事にそう思うんですけれども、私共が本当に大きなおかげを頂きたい。もう限りない広々とした世界に住みたい。和賀心が世界にあると言う程しの豊かな心を頂きたい。その為にはです。あの人は好きこの人は嫌いと云った様な物があったら、広い世界に出る事は出来んです。人間例えば何でもそうですけども、人間それぞれに誰も持たん素晴らしいものを持っておると言われております。
その本当の素晴らしい物が見えない。悪いとこだけが見えるだからもうあの人の面見ろうごとでんなかちゅうごとなって来る。こちらを向いても面見ろうごっでんなかつがおる。あちらを向いても面見ろうごっでんなかとがおるとなったらどうですか、世間は狭うなってしまうです。どちらを向いても地蔵様の様な人どちらを向いてもお観音様の様な人ばっかりに見えて来る様な私は世界に住みたいです。それはね愈々伸びようと思うならば屈せなければならない様に愈々広い大きなおかげを頂く事の為にはです。
そう云う大きな心を養うて行かなければいけないです。けれどもやっぱり嫌いなものは嫌いだけれどもです。そこが私は辛抱だと思うです。そして精進だと思うです。そして自分の心の中に、拘っておると云うか、自分の心の中に捉われておると云うか、そう云う自分の心を占領しておる良くない物を外して行く事が改まって行く事なんです。是は私は自分でも不思議で不思議でたまらない事はです。私も非常に好き嫌いが多かった、例えば色なら色がです。大変好きな色と嫌いな色がもう極端だった。
私は取分けカーキ色と言う色は見るとも嫌だったです。子供の時から。所がどうですか、今合楽の色というのはカーキ色でしょうが。もうそれが一番好きな色になったと云う所に素晴らしい事なんですよ。それがね本当に好きになろうと努めた訳ではないけれども、言うならばです。カーキ色の本当の色が解って来た。カーキ色の本当の良さが解って来たと云うのは、自分の心の中に、捉われておる物が無くなって来たから、言うならば本気で研いた。本気で改まった。
自分の心がゆたかに美しゅうなって来たらです。もうすべてがゆたかに美しゅう見えて来たと云う事なんですよ。是は色だけではありません。花なんかでももう、ふるふる好かん花がいくつもありました。所が、そのふるふる好かんと言う花がね、今は大変好きになってるです。久留米のあの光橋先生なんか、あの人はユリの花が一番嫌いでした。ある時私の方へ来てから、茶の間にユリの花が生けちゃあったです。そしたらそのユリの花ば向こう向けとるです。
だれがこんな事したじゃろうかとちゅうたら、「私がこっち向いとるならなんかユリの花から睨まれておるごたる。気色のするごたるこげんしとるですユリの花が。それが顔の方ば向いとるならもう見るとも嫌、だから向こう向けとる極端ですね。好きと嫌い私共はあの何ちゅうか清楚ですがすがしいユリの花が好きなんです。所が光橋先生はもう見るとも嫌、花がこっち向いとるなら向こう向けると言う程嫌いじゃと。
だから人間だれしも好き嫌いがあるんですある事は、けれどもですねそれを好きになるなら、稽古をすると云う事はです。その素晴らしい物が見えて来なければならない。見えて来る為にはです。心の中に捉われておる物があるからですから、心を捉えておるそれを取り除かして頂いたらです。それは素晴らしい花に見え、素晴らしい色に見える。又はあの人にはあの様な素晴らしい所があったと見えて来る様になるのです。
私は大きなおかげを頂きたいと思うなら、絶対此処ん所のおかげを頂かねば駄目です。好きになる精進と云う事はね、結局自分の心の中の捉われておるものを除く事です。自分が改まり、自分が言うなら限りなく美しゅうなる精進をさして頂いておればです。嫌いだった物が好きになるし、嫌なものが嫌でなくなって来るんです。私共はね嫌なものとか嫌いなものとかと言った様な物をです。もう本当に自分の周囲からなくして行く精進、そう云う時に金光大神来てくれと言わなきゃならん時だと思うです。
それにね只ちょいと自分が困った時だけ金光大神様に来てもらうと言った様なケチな事に金光様に来てもらったんじゃあ、金光様も来てやって働いて下さる甲斐がありなさるまいと思う。一番本当のことを頂く事の為に、本当のおかげを頂く事の為に、より愈々広く大きくならせて頂く事の為に、私は、金光大神に来て頂いて、御取次の働きがそこから始まって来るおかげを頂かにゃいけん。
昨日の古賀洋一君の場合なんかはです。金光大神にそのどうにも出来ない心がです。金光大神に。そしたら、私はあんな言葉は初めて聞いたんですけれども、「はい、ま一遍頑張ってみます」と云う声の張りのある事、生き生きとした事ですね。もう私は帰って行く後ろ姿を見てから本当に有難い思うたです。もう駄目です。もういけませんと言った様な、もう言うなら弱い心がですね。そんならもう一遍頑張って見ますと言う心で帰って行けれると云う事はです。金光大神の御取次の働きを頂いたからです。
それが積もり積もって行っておる内に、成程あの人こそ神様であったと云う様な事まで解って来たとするとです。是から例えば難儀な事に直面してもです。金光大神の御取次の働きを信ずる所から、嫌な事がなくなり嫌な問題がなくなり、もう一切が云うなら神愛、おかげとして頂けれる。言うなら心の目がその様に開けて来る。そう云うおかげを頂いた時が、そう云うおかげの頂けれる暁です。
嫌な事は嫌、光橋先生じゃないけれども、こっちばユリの花が向いとるなら、後向けとる。向きゅうごとあると。嫌な物はね。だからそれをなら本気で好きになる稽古と云う事はね、「好きにならせて下さい好きにならせて下さい」と言うただけでは好きになられんです。自分自身の心がより豊かに大きゅうなる所から、何時の間にか一番嫌いなカーキ色が今合楽でカーキ色が合楽の色と言われる位に、今は「親先生が好きだから」と言うのでしょうも。なにもかにもカーキ色でしてある。
それは私が辛抱せんならんと云うのではなくてです。その嫌いであったのが大好きになっておると云う事なんです。是はね是はもうそう云う一つの理と云うのがあるのでしょうか。もう嫌でたまらん事が有難い事になって来た時に、おかげがそこにあるんです。是はもう私がここ二十年間の体験です。もう嫌で嫌でたまらん事がです。じゃなくて有難くなった来た時には、必ずおかげがそこにあるです。あの光明皇后のお話じゃないですけれどもね、大変慈悲深いお方であった。
大変に熱心な仏教信者でおありになった。世の中にさまざまな難儀な病気がたくさんあるので、千人風呂を作られた。そしてその千人風呂に薬湯を入れて、病人を癒してやろうと云う仏心(ぶっしん)を起こされた。ある時に、もうこの人だけはこの風呂に入れられないと云う様に、もう顔手足から汁が流れる様な人が、その風呂に入れてもらいたいと言ってやってきた。
もう他の者が皆が断ろうと言ったけれども、その人をお風呂に入れてやった。そして自分の口を以て、その膿やら血やらを吸い出してやられたと言う話があります。誰だってもう嫌でたまらん、身震いする程嫌だ。けれどもです。そこに仏心を起こす時にです。それこそ自分の口を以てその血膿流れておるのを吸い出してやると云う様な、言うならば仏心、言うなら神心が出て来る様になる。
所が、その患者が観音様の化身であったと云うのです。誰も皆地蔵様の様な顔をして人やら、お観音様の顔をして御座る人だったら誰だって、所が、そう云う向こうに却って難儀があるです。もう嫌でたまらない様なそれをです。自分の仏心・神心を以て接する時にです。そこに本当の観音様を見る事が出来る。そこに神様の姿をはっきり見る事が出来る。あの人こそ神様であったなと。
是はまあ合楽の二十年余りの事をずっと思うて見てご覧なさい。その人のおかげで、あの人のおかげでと云う事になっとりますでしょうが。だから、私はそれをもっともっと、より広く深く頂いて行く事の為にです。そりゃ中々頂けん様な事があるけれどもです。「金光大神来てくれと云う所に行ってやる」と仰るのだから、そう云う時に、来てもらわなければいけないです。金光大神の働きを頂かにゃいけんです。
ただ自分のちょいとした用件の時にです。そりゃどんな時でも来て下さるです。「ちょいと集金に行きますけん」ちゅや集金に来て下さるです一緒に。「ちょいと久留米まで行きますからよろしくお願いします」ちゅや久留米まで付いて来て下さるです。けれどもそう云う言うならば大した事でもない時に来て貰う事もいいです。けれども肝心要の金光大神も本当に来てやった甲斐があると言う様な所に来て貰う事をしない。そこでそこに生神金光大神を唱える一つのゆとりを頂いてです。
御取次を頂く所から、昨日の洋一くんじゃないけれども、もう来た時には言うならば青菜に塩を掛けた様な感じだったけれども、帰りはそれこそ意気揚揚として帰れる様な働きが始まるのです。其処ん所をです。私共は信心辛抱と云うのであり、又は稽古の過程であると、そこを何回か通らして頂きよるとです。成程あれがおかげであった。あれが神様じゃったと云う事が解って来る様になった時にです。初めて肉眼をおいて心眼が段々開けだした時だと思うです。
そう云う働きを受ける事の為に、金光大神来てくれと云うおかげを頂きたいと思います。本気で嫌いな物を、好きになる稽古と言うても良い位ですね、信心の稽古と云うのは。今日は特に一つ人間関係の上に、あの人は感じがええと言う様なのはね。もう言うたり思うたりせんでも、大抵ちゃんと信心で出来よる。わざわざどうかせんでも、けれどももう嫌いなと云うのは、それこそ向こ向けようごたる。
それを一つ本気で、向こ向けようごたるけども、そん時に生神金光大神様を唱えさせてもろうて、生神金光大神様に来てもろうてです。それを言うならば、合掌して受けて行けれるまでに、お繰り合わせを頂いて行く時にです。私共の人間関係の上に、言うならばどちらを向いても良い人、どちらを向いても立派な人に見えて来る。そう云う中に住まわせて頂くおかげを頂かなきゃならない。
是は愈々大きなおかげを頂きたい為にはです。愈々深い広いおかげを頂いて行く為に、此処ん所を一つ解らせてもらうと。本当の物が本当に見えず、本当でない物が本当に見えたりする。それは自分の心が何者かに必ず捉われておる時だと解らせてもろうて、捉われておる物をまずは取り除かして頂く稽古を本気でさして頂かなければならない。そこからその働きを金光大神の働きによらなければならないと云う事でありますね。
どうぞ。